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​徒然なるままに
​雲龍風虎

​うんりょうふうこ

双蘭算命学​オフィシャルブログ

雲龍風虎この世は似たもの同士が互いに惹きつけ合うもの。いつかの「想い」が誰かのためとなるように

​うんりょうふうこ

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更新日:2023年2月20日


バラの木にバラが咲くことの「不思議」


ただ今、算命学のお教室では「天中殺理論」に突入しています



天中殺は意外に奥深く、ご宗家も『原典算命学大系』全11巻のうち、二冊分(全770ページ)に渡り解説されているほど(第八巻P440, 第九巻P330)




簡単に杓子定規に捉えられない、深い構造をしているのが天中殺のお話しです



あまりにも膨大すぎるので、ご宗家ご自身もお弟子さん方に伝える際、誤った安易な解釈を避けるようにとのことでしたが





そもそも天中殺は暦の製作における「副産物」的な発見がもたらしたもので「天中殺理論」を端的に言うと人間が先天的に与えられた「欠けと傾斜」の理論のことです



(原典の中でも、ご宗家自身が長年に渡り「天中殺理論」をお弟子さんに教えるのを躊躇っていたことが書かれています)





天中殺は人生の「方位」の道標


先ほど天中殺は「欠けと傾斜」の話だと申し上げましたが





別の言い方に換えると、わたしたち人間が「生きる」うえで、この「宇宙の摂理」を知る道標のことです



わたしたちは人生において何も「欠ける」ことなく生きていると、この深淵なる宇宙の摂理に無頓着になるもので






人生に躓く経験をして初めて




「なぜこうなるのか?」「何を間違ったのか?」「何が悪かったのか」自己を鑑みるようになるためです



(算命学を學ぶ方の多くが、人生に苦難や葛藤が多い方な理由がここに通じており、なぜ人生がこうなるのかと考えるところに、目に見えないこの世の摂理に初めて心が向かうことになるからです)



わたしたち人間は当たり前の中から学び難く、自分の人生があまりにも上手くいき過ぎていると、人生において精神的なものを学ぶことが少なくなってきます


そこに「当たり前」を何とも思わない人間性が出来上がいかねず、そのため自然の摂理として、あえて先天的な「欠け」を与えることで




現実で上手くいかない出来事の中より、人間の心が「自然の摂理」を学ぼうとする道に向かうようになります



天(宇宙の摂理)は、人間が自然の中で学ぶ分量よりも「不自然の中」で学ぶことを多くしているところに「天中殺」の意味と意義を垣間見ることができるはずですが、いかがでしょうか?



わたしたちは多くの場合で「失って」はじめて、当たり前に手にしていたものの価値に気づけるようになりますよね?



これが失った経験の後に「精神的なことを考える」ようになるということです



ここが天中殺の原理構造であり、わたしたちが先天的に「欠けた」部分があることにより、現実の中(物質世界)で「上手くいかない」「なぜだろう」と自らが人生を考う道に進み




その「上手くいかない分野=欠け」とは「真逆」の世界に進むことで、そこに「真の人生」を生きる筋道が生まれることになります



失う前に、当たり前のものの中から學べるようになるのが賢者への入り口ですね



人生は「足りない」ところに生きるヒントが隠されており、それを教えてくれるのが天中殺です



皆さんの善き道標となりますように




『バラの木にバラの花が咲くことの「不思議」こそ、人間は目を開かなければならないはずであります。ところがその当たり前の出来事からはなかなか学びとれないのが人間なのです』


高尾義政・著『原典算命学大系』より抜粋




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一年の「立志立命」の前の邪気払い


本日は「節分」です




節分とは「太陰太陽暦=旧暦」において、明日の「立春」から「新年」が始まるにあたり、その新年の「前日」において、心身ともに「邪気払い」をする風習のことです




ここでとても重要なのは「心」もということですね



わたしたちは文化的な風習として『鬼は外、福は内』と言いながら(ただ何となく)豆を撒いていますが、実はその習わしの奥に、物凄く「深い意味」が隠されています








知られざる鬼の所在



わたしたち現代人は「鬼=不運」はどこか自分の「外側の世界」からやってきて自分に「不幸・不運」をもたらし、その結果として、人生が立ち行かなくなっていくと思いがちですが





そもそも「このような考え方」でいるところに「不運」がやってくる原因が垣間見られます



なぜなら「鬼」とは「わたしたち自身」だからです



・・・



「鬼」という漢字は、漢字の原型である「甲骨文字」の「甲-こう」「乙-おつ」という文字が合わさって生まれたと言われています



※甲骨文字:亀の甲羅や動物の骨に彫って刻まれた文字




契約書で「甲乙」という文言を目にしますが、これは今から約3500年以上も太古(古代中国の殷王朝)の「甲骨文字」を今日まで変わらず継承して使用しています



そしてこの「甲乙」には「甲=わたし」「乙=わたし以外のみんな=相手」という意味があります



つまり、この「二文字」が「鬼」であるということは、「わたしたち人間」が「鬼」でもある、という意味です




では一体、その「鬼」はどこにいるのか??



それは、わたしたち(甲乙)の「内側」に潜んでいます




鬼は外、福は内

  • 相手を羨む心

  • 相手を妬む心

  • 相手に責任を押し付ける心

  • 甘言を囁き相手を陥れよとする心

  • 二枚舌(ウソをいう)で欺く心

  • 自分さえ良ければいいと思う心

  • 自分の立場を守るため恐怖で相手を支配する心

etc...



これを東洋思想の壮大な「宇宙の理」のスケールで描いているのが『鬼滅の刃』ですね



(最近またゆっくり読み直していて、作者のこの世の摂理への造詣の深さに心震えて、いつも同じところで涙しています)




誰の心の「内側」に潜む鬼を「滅す意識」本日【節分】であり「清め、禊払い」をし明日の新年【立春】に挑みます




そのために「豆」を撒きます




自らが「立志立命」したところに(=豆を撒く)「芽」がでるからです




それを秋(=時の経過の果てに)に刈り取るのが「自分」だからです



人生に以前に蒔いた種子の「結果」を刈り取らざるを得ないのが人生であり、この部分の「構造」をより具体的に解明しているのが東洋の運命学(=算命学)なんですね



つまり【節分】とは「円環する宇宙の構造」と「すべての有は無から生じる」という法則から生まれた東洋圏に見られる風習と文化です



(万物は、何もない「無=精神」から出発し、「有=物質=現実の結果」を創る)




本日は「心の禊払い」をし、望む「明るい未来」のための「種子」を立志立命「蒔いて」いきましょう



それを育てるのは「時間」ですね




_________

✔️蒔く-maku:時間の経過が植物の育成に繋がる

✔️膜-maku:植物の外皮。自分の「殻」を「内側」から突き破る


_________


サロンの方では「運命の構造」について、算命学をお勉強されていない方でも大丈夫なように深掘り解説しています→(


↓↓↓【サロン限定動画】





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更新日:2023年2月9日





新年の幕開け

まもなく2月4日を以って「立春」となり新たに一年が始まってまいりますね



算命学の道に進んでからというもの、気づけば幾年も経過していて、その中で着実に確実に人間の「中身の年輪」が柔らかく嫋やかに、それでいて強固なものになっている実感があります



今年も「やりたいこと」「やるべきこと-役目」を一日一日確実に積み重ねていくつもりでいます



それがわたしの人生の「守護神」の一つだからですね

(※守護神法:人生に「中庸」バランスをもたらす技法)



算命学はどこまでも『無為自然-muishizen』を目指し、この『無為自然』とは「あるがままの自然な姿」のことです




「あるがまま」とは、わたしたちが与えられた天賦の資質をそのままに「磨き全うして生きる姿」のことです



一見シンプルですがシンプルなものほど実に奥深く、それゆえ時に大変な困難さを伴うことが少なくありません




現代人は「陽転」している人が少ないと言われていますが、いかにこの『無為自然』な「あるがまま」の「自分らしさ」を体現して生きることが現代において非常に難しいか、近頃の耳にするニュースの内容を思い起こすと、理解できるのではないでしょうか?



(陽転を逸れる=陰転:本来の先天的な「資質通りの生き方」を逸れる結果、好ましくない人生航路に進み、結果として生き方に歪みが出る姿、命式のエネルギー燃焼を逸れる生き方)



わたしたちは日々、自分以外の人や社会の「こうあるべき」という枠組みに押し込められがちです



生まれてきてから「普通」とか「一般的」という「枠」に当てはめらて「測られる」ことに慣れているわたしたち現代人ですから



「自分らしさ」の意味がわからずに、往々にして生き方を「見間違う」ことが多くなり、その結果自分らしさから逸れて生きる「陰転者」が多くなり、本来の人生の道筋を逸れる「不自然な生き方」が副産物に歪な人生や、時に犯罪行為まで生み出し出すのが陰転の代償です



(陰転:自分らしい生き方から逸れた結果、人生に歪みが生じる人)




花は野にあるように


『花は野にあるように』と言ったのは茶の湯の千利休です




野にあるように「あるがまま」を損ねないように、少し人の手を加えてあげることで生来の美しさが引き立つようになる



そんな教えです




算命学もこれに同じで『無為自然』とは、野に咲く花を体現する如く






生来の「気質」のあるがままを、あるべき姿のままに伸ばしてあげる、お手伝いをすることです



「あるがまま」は「わがまま」とはまるで異なります



「強い者」は強い本来の資質を生かすべく、険しい世間や社会の中で大いに揉まれ、よく研磨されるところに、生来の「強さ」が真価を発揮することができますし




天性の強さが研磨されず、自分の欲望のままに「甘やかされ」「楽な方へ」「自分さえ良ければいい」と過ごすのは『無為自然』な「あるがまま」とは対岸の世界です



新年2023年もいよいよ4日から始まりますので、自分の中の甘言(甘い誘惑)を誘う「鬼」を一風し





真の「役目を全うする道」に進めるよう、共に『種子-まめ』を撒きしていきましょうね



その先に『花が野にあるように』生きる道につづいてるはずです



皆さんの元へ善き福が訪れますように






双蘭

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