算命学は道理の学問
このところ、東洋と西洋占星術の違いについてご質問が重なったので、改めてここにこの違いについて①概念的な違いと②具体的な歴史的経緯について、複数回に分けて言及しておこうと思います
①概念的な違いの、結論から先にいうと
「物事の道理を処すことができる思想哲学」の所有の有無についてです
これはどういうことかと言うと
未来を推測したり、この先の時代や人生のいく末を推察することができる、という観点のみに着目すると、両者ともにそれぞれの技術の集大成であることには変わりないのですが
東洋の運命学の最大の特徴は
この世の森羅万象を、道理の観点から分類し、政治経済、軍略、処世術、経営、など人が「生きる」ための行為全般に活用することができる「思想哲学を所有する」という最大の異なりです
例えば、ある人が恋人にプレゼントをしたとします
ある時、恋人同士の喧嘩をした際に、それならば(=君がそのような態度に出るならば)以前渡したプレゼントを返せ、と言い放ったとします
この時点で「道理の道筋の心得」をもつ算命学の素養がある場合、この人物は真に自己確立をした、自立した人物ではないことが、自ずとと推察することができるようになります
これは「物事の道理」に理解が及んでいると、起こりうる事象現象を本来の「自然の摂理がもたらす道筋」に則り、ものごとを見立て、処していくことができるようになるため
前述の発言は、真に自己確立した者からは決して発せられない類の発言であり、
また「真に自己確立」できていないゆえに (=人間の真の自立と自己確立を意味する貫索星の不完全さ)
人間関係の中で「与えたら与えっぱなし」という「無我の境地」に至れない、ゆえに (=相手に依存しない孤独の世界の調舒星の不完全さ)
「与えること」のみにフォーカスすることができずに、常に「与えること」のその裏に条件が介在していて、与えっぱなしの境地に至れない、それゆえに相手からも「貰おうとする」姿が働いている姿であり (=与えたら与えっぱなしの奉仕の心を意味する禄存星の不完全さ)
つまり、これらのことから「真の人間力と魅力・引力本能」を発揮することが出来ない人物であること判るようになります
自然の道筋である「道理」を理解している場合、この人物とこの先も共にいることで起こり得る『その先』の未来に予想に検討がつく、故に「未来が予見できる」ようになるのが東洋の運命学であり、
東洋の未来予知と推命の技術が、
常に思想哲学と二人三脚して歩んできた道のりが何となく理解できるのはないでしょうか?
よって、東洋思想と運命学は「道理の学問」であり、これが東洋と西洋の未来予測技術の最大の異なりです
その中でもとりわけ算命学は、古代中国において、500年以上もの間戦争をし続けていた乱世において、実際の「現実の具現化」のための下剋上のため、戦争に勝つために活用されてきた「軍略」の側面が強く、皇帝の帝王学です
算命学を始めとする東洋の運命学が
「運命学にあって運命学のみに非(あ)らず」といった特徴を、なんとなく想像いただけたでしょうか?
いずれにせよ、東洋と西洋ともに真理を探究しているのであれば、山を登るための「入口」が異なっていたとしても、頂きである山頂から眺める景色は「ただ一つ」です
万が一、その風景に異なりがあるのならば「どこかが」または「どなたかが」まだ「山頂に登りきれていない」ということを意味しています
"道を極めた者が辿り付く場所はいつも同じだ
時代が変わろうともそこに至るまでの道のりが違おうとも
必ず同じ場所に行きつく"
『鬼滅の刃』
始まりの剣士」縁一(よりいち)
いつの時代も、どんなジャンルであろうと
「極めたもの」が観る景色はただ一つです
そこのアプローチにはごまんと方法はありますが、
未来予知の技術は、算命学が持つ要素の単なる一片に過ぎないことを、算命学を帝王学として学び進める方々は自ずと体験するのではないでしょうか?
引き続きまた
②東洋と西洋の占星術が辿ってきた歴史的な背景とその違い
について言及していこうと思います
双蘭
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