世の中には情報と知識と智恵があります
兎角、情報が氾濫する現代においては、情報に価値があるわけではなく、その情報を体系立てて自分の役に立たせる知識へと昇華できているのか?
また、その知識を「智恵」を以て、正しく処せているのか?という観点が現代(いま)最も必要とされていると強く感じています
少し前に有名になった話に
ニューヨークタイムズの1週間分の情報量は、18世紀の人類の一生分に相当し、日本人の一日の情報は平安時代の一生分の情報量に相当に、また江戸時代の人の一年分だというものがありましたね
現代においては、ネットにある約90%以上の情報は、ここ直近2、3年のものであるらしく、こんな風に情報が氾濫する現代においては、すでに「情報そのもの」に価値があるわけでないことが解るのではないでしょうか?
情報と知識と智恵では
それぞれ「次元」が異なります
「情報」とはTVを付ければ、雑誌を開けば、ネットを開けば、時には友人から耳にする、即座に誰もがアクセスできる、いわば「点」として存在する、玉石混交のデータのことです
(※玉石混交:善いものと悪いものが混ぜこぜになった様子)
「知識」とは、この点と点の情報を、体系立てて整理し、それを目的に合わせて活用する術のことであり、それはちょうど点と点がシナプスで繋がり一本の「線」になった「情報網」のようなもののことです
さて、それでは「智恵」とはなんでしょうか?
知恵とは「物事を道理の道筋により、正しく判断する力」であり、この場合でいうところの「正しさ」というのは、個人的な主観ではなく、道理の道筋に沿っているか否やという俯瞰した「立体」の視点だということです
それは、点と点が繋がり線となった先に、網羅的に体系立てられ、寄り集まりできあがった「道筋の仕組み」のことであり、さらに言い換えると、それは「自然界の仕組み=道理」への造詣を意味しています
東洋ではその自然、強いては宇宙の道理を「正」と言います
つまり「正しさ」というのは、「道理に則っているか否や」だという観点で分けられることを意味していて、兎角現代は、特にネット上において、自己の身勝手な主義主観により「正義」と称して人を傷つける行為が横行していますが
これは正義ではなく、個人的な見解による狭い見識の中での判断であり、それはすでに本来の「正義」ではないことを、よくよく現代人のわたしたちは理解しておく必要があるのではないでしょうか
※この場合、物事の一次元的の「点」のみに捉われた「低次元な情報空間」を持つ人が、こういう行為におよぶのが人の世の常です
こんな風に「情報・知識・知恵」は、一見似ているようで、そこには
一次元の「点」
二次元の「線」
そして網羅的な三次元の「立体」として
情報空間には確たる「次元の異なり」が存在しています
ゆえに、情報と知識と智恵では同じものを見ていても「観ているもの」がまるで異なります
点でバラバラの情報に価値があるのではなく、その点と点の関係性を体系的に組み合わせて活用できる「線」の力がより重要で
その線と線が網羅的に縁(よ)り集まって出来上がる知識の集大成を、道理の観点(俯瞰の視点)から「正しく」活用する能力であり
スマホという巨大な情報源を片手にしながらも、常に迷い彷徨っているわたしたち現代人が今最も身につけなければいけない「生き抜く術」ではないでしょうか?
バラバラな情報を「繋げる力」を自分の中に持つと、いかにそれぞれがバラバラに思える一つ一つが、互いに縁(よ)り集まって「円」をなし循環しているのが、徐々に分かり始めることと思います
これが算命学が持つ東洋思想の世界です
この宇宙がどのような網目で成り立っているか、真に理解が至ったとき、その中で自ずと自分の「役目」が見えてくるはずです
見えているようで、観えていないわたしたち
聞いているようで、聴いていないわたしたち
味覚しているようで、味わうものの本質に覚えがないわたしたち
見えないものを「両眼」で束ね観つめる「真眼」こそ、今最も必要とされているのではないでしょうか
双蘭
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