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​徒然なるままに
​雲龍風虎

​うんりょうふうこ

双蘭算命学​オフィシャルブログ

雲龍風虎この世は似たもの同士が互いに惹きつけ合うもの。いつかの「想い」が誰かのためとなるように

​うんりょうふうこ

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更新日:2023年8月19日




世の中には情報と知識と智恵があります



兎角、情報が氾濫する現代においては、情報に価値があるわけではなく、その情報を体系立てて自分の役に立たせる知識へと昇華できているのか?



また、その知識を「智恵」を以て、正しく処せているのか?という観点が現代(いま)最も必要とされていると強く感じています



少し前に有名になった話に




ニューヨークタイムズの1週間分の情報量は、18世紀の人類の一生分に相当し、日本人の一日の情報は平安時代の一生分の情報量に相当に、また江戸時代の人の一年分だというものがありましたね




現代においては、ネットにある約90%以上の情報は、ここ直近2、3年のものであるらしく、こんな風に情報が氾濫する現代においては、すでに「情報そのもの」に価値があるわけでないことが解るのではないでしょうか?




情報と知識と智恵では

それぞれ「次元」が異なります



「情報」とはTVを付ければ、雑誌を開けば、ネットを開けば、時には友人から耳にする、即座に誰もがアクセスできる、いわば「」として存在する、玉石混交のデータのことです



(※玉石混交:善いものと悪いものが混ぜこぜになった様子)



「知識」とは、この点と点の情報を、体系立てて整理し、それを目的に合わせて活用する術のことであり、それはちょうど点と点がシナプスで繋がり一本の「」になった「情報網」のようなもののことです



さて、それでは「智恵」とはなんでしょうか?



知恵とは「物事を道理の道筋により、正しく判断する力」であり、この場合でいうところの「正しさ」というのは、個人的な主観ではなく、道理の道筋に沿っているか否やという俯瞰した「立体」の視点だということです




それは、点と点が繋がり線となった先に、網羅的に体系立てられ、寄り集まりできあがった「道筋の仕組み」のことであり、さらに言い換えると、それは「自然界の仕組み=道理」への造詣を意味しています


東洋ではその自然、強いては宇宙の道理を「」と言います





つまり「正しさ」というのは、「道理に則っているか否や」だという観点で分けられることを意味していて、兎角現代は、特にネット上において、自己の身勝手な主義主観により「正義」と称して人を傷つける行為が横行していますが



これは正義ではなく、個人的な見解による狭い見識の中での判断であり、それはすでに本来の「正義」ではないことを、よくよく現代人のわたしたちは理解しておく必要があるのではないでしょうか



※この場合、物事の一次元的の「点」のみに捉われた「低次元な情報空間」を持つ人が、こういう行為におよぶのが人の世の常です



こんな風に「情報・知識・知恵」は、一見似ているようで、そこには





一次元の「点」

二次元の「線」

そして網羅的な三次元の「立体」として

情報空間には確たる「次元の異なり」が存在しています



ゆえに、情報と知識と智恵では同じものを見ていても「観ているもの」がまるで異なります




点でバラバラの情報に価値があるのではなく、その点と点の関係性を体系的に組み合わせて活用できる「線」の力がより重要で


その線と線が網羅的に縁(よ)り集まって出来上がる知識の集大成を、道理の観点(俯瞰の視点)から「正しく」活用する能力であり




スマホという巨大な情報源を片手にしながらも、常に迷い彷徨っているわたしたち現代人が今最も身につけなければいけない「生き抜く術」ではないでしょうか?



バラバラな情報を「繋げる力」を自分の中に持つと、いかにそれぞれがバラバラに思える一つ一つが、互いに縁(よ)り集まって「円」をなし循環しているのが、徐々に分かり始めることと思います




これが算命学が持つ東洋思想の世界です


この宇宙がどのような網目で成り立っているか、真に理解が至ったとき、その中で自ずと自分の「役目」が見えてくるはずです



見えているようで、観えていないわたしたち

聞いているようで、聴いていないわたしたち

味覚しているようで、味わうものの本質に覚えがないわたしたち



見えないものを「両眼」で束ね観つめる「真眼」こそ、今最も必要とされているのではないでしょうか

双蘭




只今、東洋思想オンラインサロン【天意堂】では、東洋思想コラムと月一の勉強会にて、人生をより豊かに深める「智恵」を皆さんに紹介しております。算命学をお勉強されていない方でも大丈夫なようなコラムを配信していますので、お気軽にご参加ください



不定期募集ですが、ご質問だけでもOK!お気軽にお問いわせくださいませ

閲覧数:48回0件のコメント

更新日:2023年7月31日



人間は数学的な「氣」の集合体

只今、算命学のお教室では『位相法』に突入しています



が、位相法もこれまた非常に奥深い原理があり、位相法がわかると、いかにわたしたちの人生に起こる「現実現象」そして「宇宙そのもの」が数学的な構造によって成り立っているのかが解るはずです





そして、またわたしたち自身も「数学的な氣の集合体」であるということを意味しています



わたしたちの人生に起こり得る現実現象は(=位相法は)不確かな要素によって、偶発的に起こっているのはなく





そこには確たる「現象の型」があり、それに則って、物事は起こるべくして、起こっています



算命学では、この位相法という技術によって、予め人生全般において「起こり得る現実現象」を導き出することができますが




一方で、その「現象の型」はすでに決定しているものの、実際どのように細かい事象現象で起こるのか、ということは




その人の「命式の消化度合い」や「生き方の質」置かれた「環境」で、現象化がさらに細分化され異なります



これはどういうことかというと、位相法の現象化は(=現実現象は)





①自分の実体験として自らが経験することに加え(=通常の位相法の現実化)




②自分を取り巻く周辺の「環境=人間関係」に現象の顕現化を見る、場合があります



そういえば、自分自身の7月度の月運が「完全破壊」を意味する『天剋地冲』がめぐったため、予め心を落ち着けつつ、するべきことと、するべきでないことを事前に頭の中で仕分けしていましたが



気づいてみたら7月も終わりを迎えようとしていて、はて?天剋地冲(破壊的な現象)は、なんだったかな?と考えたところ




正に②の「位相法の現象化を環境にみた」のではないだろうかと、今なお検証中です



というのも、7月度のご相談内容が正に「天剋地冲の方と出会った方のご相談」だったので、そういった意味では②現象化を周辺の環境にみて自分自身が直接経験した破壊的なことが思い当たらない




と検証していますが、どうでしょうか?



位相法は、宇宙の黄金比『フィボナッチ数列』の円環のようなものであり、これは「自然の法則」であるため、わたしたちは位相法の現象化を決して避けて通ることはできませんが


この身に起こることを「ありのまま」を受け入れる「智慧」で、位相法がもたらす、恩恵と苦難もこの先の人生も乗り切りたいものです


そのためにも、謙虚に算命学を引き続き學び進めていきたい所存です




双蘭

閲覧数:50回0件のコメント

更新日:2023年7月30日




只今、算命学のお教室では「現実現象」を読み解く技術である、陰占『位相法』に突入しています


日頃から、扱う技術に合わせて実例を取り上げながら進めており




今回の「位相法」の実例には歌舞伎俳優の市川猿之助さんのこたびの事件も取り扱っています



そこで、猿之助さんの事件で一つ感じたことがあります


誉れ高い歌舞伎の名門家元が一家心中を図られた今回の事件




書きたいことは色々ありますが、自殺未遂を図った挙句に本人が「死ねなかった=存命した理由」について





命式とご本人の活躍の経緯を照らし合わせてみて一つ確信したのは




命式の消化度合いが本人を「生かした」ということです




只今、オンラインサロンの方でも(

「人の生死を分ける」本質的な法則についてコラムで解説していたのですが




(コラムタイトル『生死の法則:自然淘汰を超えていけ』



この自然の摂理における生物の本質的な「生死」は、人が生まれるのも、亡くなるのもみな自然の摂理の因果があります




その中で自ら死を選んだ者が「死ねなかった」というのも、それ自体が自然の摂理の中で大きな意味があり



それゆえに東洋人は生きることについて古来より「生かされている」という表現をしています



哲学的な意味だけでなく数学的・生物学的な意味でも本当に「生かされている存在」なのがわたしたち人間です





それは天と地の「狭間-はざま」の因果です



つまり、生かされていること、生きることの究極の理由は宇宙的な「自然の摂理」においてまだ課された「役目」があり





今回の猿之助さんが自死を望みながらも「生かされた」理由は




それはそれまでの「命式の消化度合い」が非常に順当な要素が(=命式の大部分の要素を消化しながら生きておられた)決定的な生存の決め手となったのではないかという算命学的な見解です


また猿之助さんと同様に位相法における「東方半会および西方天剋地冲」のめぐりで命を落とされた、冒険家の植村直己さんの命式を眺めていたところ




現実現象において(位相法)同じ運命の働きがあるのにお二人の事例で「生死」を分けた本質的な理由は




それは命式の消化度合いと、生き方の矛盾だったのではないでしょうか?





植村さんは、世界初五大大陸最高峰登頂、世界初犬ぞり単独北極到達など、数々の偉業を達成された方で、冒険の最中、43歳の若さにして登山中のマッキンリーにて他界されていますが





「冒険家」の生き方は本来の命式には違和感がありますし、そうなような人生に至った経緯も色々お見受けできる因果が大運(10年単位の人生の推移)にあります



猿之助さんと植木さんの事例を通して誤認してほしくないのは、西方の天剋地冲が必ず命を落とすと言うわけでは決してありません





詳細はサロン(東洋思想オンラインサロン)や授業()の方の話を譲り、ここでは詳細は省きますが





ただ起こることのすべてには、計り知れない意味があり、その計り知れない深淵な意味を「推しはかる技術」が算命学ではないでしょうか??



皆さんも「命式の消化」は生きる上で絶対必須ですね?



すべての人の人生が無為自然の営みを送ることができますように、その一端のお役に立てますように





双蘭

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